
富岡鉄斎 諏訪蘇山宛絵入り消息(白菜図)
【作品について】
一流の芸術家同士の交流が窺える逸品。
諏訪蘇山は大正3(1914)年に高麗古窯旧跡の調査のために朝鮮へ渡り、11月に帰国した。手紙の内容からすると、その際 李王家の白菜図を持ち帰り、それを鉄斎に送り、喜んだ鉄斎が蘇山に御礼の手紙を送ったものではないかと思います。
そうするとこれは鉄斎79歳の書画作品になります。
揉み紙と山水柄が入った蝋箋(ろうせん)で仕立てられ、素朴で品のある掛け軸になっています。
【作者について】
富岡鉄斎 1837-1924
明治-大正時代の日本画家。
天保(てんぽう)7年12月19日生まれ。国学,漢学,仏教,詩文をまなぶ。
勤王家とまじわり,維新後,各地の神社の宮司となる。明治14年郷里の京都にかえり,読書と画業に専念。自由奔放で独自な文人画の世界をきりひらいた。
帝室技芸員,帝国美術院会員。大正13年12月31日死去。89歳。名は猷輔,百錬。字(あざな)は無倦(むけん)。別号に鉄崖,鉄史。作品に「旧蝦夷(えぞ)風俗図」など。
諏訪蘇山 1852-1922
明治大正期を代表する京都の陶工。金沢生まれ。名は好武,幼名を栄三郎と称した。
22歳のとき,東京に出て彩雲楼旭山に陶画を学んだが,間もなく帰京して九谷陶器会社に勤めた。のち石川県立工業学校彫刻科の助教諭となり,九谷焼の彫像を手がけた。
明治33(1900)年京都の錦光山製陶所に招かれ,40年独立して五条坂に窯を開き,青磁を完成,蘇山青磁と賞された。白磁にも秀作を残している。
大正3(1914)年には,朝鮮李王家のために高麗窯の再興に尽力した。大正6年帝室技芸員。
一流の芸術家同士の交流が窺える逸品。
諏訪蘇山は大正3(1914)年に高麗古窯旧跡の調査のために朝鮮へ渡り、11月に帰国した。手紙の内容からすると、その際 李王家の白菜図を持ち帰り、それを鉄斎に送り、喜んだ鉄斎が蘇山に御礼の手紙を送ったものではないかと思います。
そうするとこれは鉄斎79歳の書画作品になります。
揉み紙と山水柄が入った蝋箋(ろうせん)で仕立てられ、素朴で品のある掛け軸になっています。
【作者について】
富岡鉄斎 1837-1924
明治-大正時代の日本画家。
天保(てんぽう)7年12月19日生まれ。国学,漢学,仏教,詩文をまなぶ。
勤王家とまじわり,維新後,各地の神社の宮司となる。明治14年郷里の京都にかえり,読書と画業に専念。自由奔放で独自な文人画の世界をきりひらいた。
帝室技芸員,帝国美術院会員。大正13年12月31日死去。89歳。名は猷輔,百錬。字(あざな)は無倦(むけん)。別号に鉄崖,鉄史。作品に「旧蝦夷(えぞ)風俗図」など。
諏訪蘇山 1852-1922
明治大正期を代表する京都の陶工。金沢生まれ。名は好武,幼名を栄三郎と称した。
22歳のとき,東京に出て彩雲楼旭山に陶画を学んだが,間もなく帰京して九谷陶器会社に勤めた。のち石川県立工業学校彫刻科の助教諭となり,九谷焼の彫像を手がけた。
明治33(1900)年京都の錦光山製陶所に招かれ,40年独立して五条坂に窯を開き,青磁を完成,蘇山青磁と賞された。白磁にも秀作を残している。
大正3(1914)年には,朝鮮李王家のために高麗窯の再興に尽力した。大正6年帝室技芸員。

全体図

落款印章

表具

軸先

包み紙

包み紙

箱

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スタッフのおすすめポイント
一流の芸術家同士の交流が窺える逸品。
諏訪蘇山は大正3(1914)年に高麗古窯旧跡の調査のために朝鮮へ渡り、11月に帰国した。手紙の内容からすると、その際 李王家の白菜図を持ち帰り、それを鉄斎に送り、喜んだ鉄斎が蘇山に御礼の手紙を送ったものではないかと思います。
そうするとこれは鉄斎79歳の書画作品になります。
揉み紙と山水柄が入った蝋箋(ろうせん)で仕立てられ、素朴で品のある掛け軸になっています。
富岡鉄斎 諏訪蘇山宛絵入り消息(白菜図)
- 作家名
- 富岡鉄斎
- 画題
- 諏訪蘇山宛絵入り消息(白菜図)
- サイズ
- 30.8 × 20.3
- その他
- 宛名と署名の入った包み紙が付属しています。
- 金額
- 90000円
購入をご希望の方は、上部の「お問い合わせ」よりご連絡ください。
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創業107年分の知識と資料を誇っています。
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